先ほど仙台からもどりました。

 日曜夜 仙台から戻りました。今回は 前回の石巻の南に位置する東松山地区の検案検視、身元確認照合でした。野蒜地区は街が壊滅状態の地域でもあります。かなり遺体の損傷、腐乱がすすんできていて、判別が厳しくなってきています。家族もお顔を見てわからない状況が多く、歯科の役割が非常に重要になってきています。今回も歯科の照合で判別した方が多くいらっしゃいました。

   対面は皆が辛い場面です。後に外で、先ほどはありがとうございました。と遺族の方から深々と頭を下げられ、うつむくだけで涙が止まらなくなります。前回は神様、あなたはどうしてこんなことをするのですか? と何度も心の中で繰り返しました。今回、神様はやっぱりいないと思いました。だって、こんなに惨いことするわけないですから、、、

  今回の震災を通して 多くの人々が 自分にできる事、、、 何かしなければ、、、
居ても立ってもいられないような気持ちに、、、、
  今でも心に焼き付いている1985年夏。 25歳、歯科医師になった歳に、日航機事故があった。丁度初めての夏期休暇を頂き、伊豆に向かっていた。カーラジオで事故を知り、法医学をしている叔父の顔が浮かんだ。歯科医師になった自分にも、今、何かできることがある、車をUターンさせてオスタカ山に向かった。が。 
結局、私は伊豆に行ってしまった。
そのときの自分への腹立ちをずっと抱えて生きてきた。 阪神淡路、奥尻島、新潟と、、
行かない、行くことができない理由は山ほどある。いつだって。
行く理由はたった一つ。それを自分がするべきだと思うから。次はどこでも必ず行くと決めていた。それが今回の東北だった。

   今回の震災に対して、自分のリスクを省みず、長年携わってきた歯科医師として出来る手伝いをしたい、今か今かと待機している先生が他にもどれほどいらっしゃることか……。泊まるところなんて何処でもいい。雑魚寝で構わない。寝袋で布団などいらない。ご飯など食べなくても、カップラーメン持って行けば、、、  心の準備、自分の診療室の段取り、家族の理解も得て、、、
 今後、そういった先生の思いを無駄にしないよう、地元の歯科医師会、日本歯科医師会などが連携し、被災者、現地の先生方の気持ち、状況も理解した形での支援が進むことを、切に祈っている。できる支援は山ほどある。
  百の見聞は一経験にしかず。
いったい今 行かないでいつ行くのでしょうか? また起こるやもしれない事象に対して少しでも多くの先生が経験し あの現状を実際目の当たりにすることは、今後の日本の為に、歯科医療の為に、人々の為に大切なことと思う。 

    生活があるからこそ、人は生きている。晴れた空や、満開の桜や、旬の食べ物を、共に喜ぶ人たちとの関わり、案じ合う思いやり。歯科医だからこそ、食の面から、人々の生活を支えることができる。悲しみの中で、桜の開花や子供たちの笑顔が、一瞬心を和らげてくれるように、一口の味わいが全身に力を沸き起こしてくれることを、私は支えて行きたい。そんな歯科医でありたいと今、考えている。

 医療の中の口腔を担当する歯科医師として、震災の支援、義援だけではなく、毎日当たり前にやってきた臨床、そして一人一人の患者さんに対しても、本来の歯科医療とはどうあるべきか、社会に貢献していくこととは何であるか、今何をすべきか、本当に大切なことは何なのか、皆が原点に還って考える時なのかもしれない。

  色々なものが満たされていた時代から、あの時を境に 私たち歯科医療に従事する人間が大きく変わることのできる時であり、社会に、患者さんに、若人に示すときでもある。今こそ真価が問われている。 

  一人でも多くの方を家族の元に、、、
今回の遺体の身元確認は 歯医者になって 歯科医師として私が経験した中でもっとも悲しく辛く過酷なことでありましたが、歯科医師しかできない、自分で言うものおかしいですが崇高な、そして社会、人々にとって重要な役目で、やりがいのあることでした。しかし未だにスラッシュバックしてあの状況に戻ります。臭い、音で蘇り、夢でも見ます。海に(サーフィン)にしばらく行けません。 年を忘れて、震災後3度目の仙台に向かいます。老眼鏡を忘れずに、、、 今回は 週末に東北大学と仙台の歯科衛生士校ハローワークに行ってきます。

                          重原聡