そこでの光景は、筆舌に尽くしがたい悲惨なものだった。

外に張り出された遺体の顔写真、特徴を食い入るように見つめる人々、もう、いくつもの安置所を探し歩き、疲れて座り込む人。安置所での1週間ぶりの悲しい対面。おかあさん、おかあさん、おかあさん!どうして、、、 号泣する子供、家族。子供を亡くし、安置所で対面して、放心状態の母親、、、、、 夫の変わり果てた姿を目の当たりにしながら近づけず、その場に泣き崩れる婦人。
 もし自分の家族だったら、なんて思うこともなく、涙が止まらない。悲しくて、悲しくて、せつなくて、無情で。この目で見たことは決して言葉で表現できるものではない。
 雪まじりの外の寒気よりも冷たく重い冷気に押しつぶされそうになる。時間は午前10時過ぎ、気温は1度、凍てつく寒さの中、外で着替える。用意してきたスキー用アンダーウエアー、真冬のゴルフウエアー、その上に上下別のカッパ、さらにディスポーザブルのオペ着、老眼鏡、帽子、長靴、グローブ。携帯カイロを二つポケットに、その姿で中に入る。中ではすでに警察官による検案検視が始まっていた。東北大歯学部、山形県歯科医師会の開業医の先生方(車で片道3時間以上かけて)がボランティアとして参加していらした。地元(石巻)歯科医師会は 被災の状況から機能出来ない状況らしい。連絡もつかず、要請するどころか先方からの連絡も全くない状況とのこと。ご家族は無事であったが診療室は流されたというご自身も被災者である先生がボランテアとして、被災から1週間も経っていない時に参加されている。帰れば家族も自宅もあり、物資も豊富な自分が、今、しなければならないことを改めて肝に銘じる。まず、チャートを受け取った時点で、用紙が県警で説明を受けたものと異なっている。当初から想像はしていたが、チャート、写真、レントゲン撮影法、その他教科書的なことは役に立たず、もちろんレントゲンなんてあるわけも無し、だからどうのこうの言う間もなく、二人一組ということで 同行の朴沢先生(仙台開業)と組んで開始した。スマトラを想像してぱんぱんに腫れ上がった顔を想像していたが、避難所にいらっしゃる方々にはつらい寒さも、遺体には良い環境だったようで損傷が少なく、驚くくらい非常にきれいな、そのまま寝ているかの様な状態。打撲の後はあるが手足もそのままの方が殆どであった。だからこそ、自分の子供や親を想像して涙が止まらなくなる。法医学の先生によると多くは溺死とのことだが、津波の際の材木や車、波の勢いで、瞬時に意識をなくしたのでは?と思えるくらい水を飲んでいる感じがない。痩せている方も太っている方もそのままなのでは、と。
 検案する前にメンバーで合掌、それから開始。死後硬直があり開口は困難、石膏スパチュラで隙間をあけて、隙間に開口器を入れる。前日氷点下でもあったため冷たい。指先は5分で感覚が無くなった。診査と記載で一組。だがこれは大変で、東北大学はすでに3人1組で、一人が照明と介助、診査、記載。これが効率よく、衛生面でも良い。二人では記載者も介助になりその手で記載することになる。汚れるので感染症も心配だ! 最初の2分で衛生面の分離はなくなった。眼鏡は曇ってその間から視るしかない。そうしている間もなく、次々とひきっりなしに自衛隊のトラックで運ばれてくる遺体。検案、検視の済んだ遺体のなかで身元が未だわかっていない方を歯科医師が順番にみていくことになる。当初は毛布に包まれた遺体が多かった。検案検視では発見された場所や推定の年齢と番号が記載されている。所持品と衣類は別のビニール袋に入っている。途中から地元のボランティアの先生に照明、介助を担当して頂くと効率が良くなった。
 空いた時間に今までのデンタルチャートの清書をするためセンターのデスクに向かい再確認、シェーマの仕上げをする。頻繁に起こる余震の度に安置所の高い天井を見上げ、頭の中には津波の光景がよぎる。