震災6日後、神奈川県より身元確認の協力医として石巻に入る 現地からの報告

 3月17日木曜日、宮城県歯科医師会のご許可の下、警察より緊急車両の指定を受け、有志の先生方、商店街の方々、当院スタッフが用意してくれた支援物資を積み込み、東北自動車道を北上。液晶テレビから入る枝野さんの原発の情報が気になる。福島に入り車の換気を内循環に。路面も次第に緊急に繕ってはあるが道路の段差、うねりが激しくなり、70㎞以上は出せない。
宮城に入ると大雪。朴沢先生の指示通りスタッドレスに代えてきて良かった。気温はマイナス3°
宮城インターを一つ越えたところの泉宮城インターで下車 お世話になる朴沢先生の自宅に到着、仙台市街からは10分ほど離れた地区で震災の影響はさほどでもなかった地区にだが、電気は昨日開通、しかし水道、ガスは未だ 復旧の見込みなしとのこと。
 時刻は12時半 外気温はマイナス5,5°

   翌朝、朴沢、重原、安岡の三人は 宮城県警に向かう。東北大学歯学部からのボランティアと合流。私達の担当は石巻、8人の4組。宮城県歯科医師会の担当、江澤先生よりデンタルチャートの取り方の説明、確認をして頂く。歯科医師会では、毎日、江澤先生が県警で指揮を取られ、各所への人員の手配、調整をされている。身勝手な行動は慎むべきで、統括する場所をを一つにしないと混乱するとのお話。全体として連絡は比較的取れている。が携帯電話の繋がらない地域もある。(私が滞在中に日を追って改善された)
いよいよ出発、警察の車両に関東からの支援物資を積み込んだら人が乗れなくなり、我々は警察車両ではなく、私の車で移動することになった。朴沢先生は過去に雫石の日航機墜落の際にも、身元確認のボランティアに参加された経緯をお持ちであり、車の中で当時の状況や検視方法をお聞きし、心の準備をした。

  道路の損傷が激しく、仙台から石巻まで1時間半かかる。遺体安置所は石巻旧青果市場。300人以上のご遺体が安置されていた。地震直後から安置所になっていた会場が400人以上で収容不可能となったとのこと。安置所入り口に我々の車以外に7、8台の車が停まっている。宅配便車両、軽トラック、郵便車両、、荷台には何人ものご遺体が検死を待つ。

  そこでの光景は筆舌に尽くしがたし

  張り出されたご遺体の特徴を食い入るように見つめる人々、もう、いくつもの安置所を探し歩き、疲れて座り込む人。安置所での1週間ぶりの悲しい対面。おかあさん、、おかあさん、、おかあさん!、どうして、、、 号泣する声。子供を亡くし安置所で対面、放心状態のお母さん、、、、、 ご主人の変わり果てた姿を目の当たりにしながら近づけず、その場に泣き崩れる婦人。
もし自分の家族だったら、なんて思うこともなく、涙が止まらない。悲しくて、悲しくて、悲しくて、せつなくて、
無情で、、、、、この目で見たことは決して言葉で表現できるものではない。

  また一人、身元不明のご遺体が家族の元へと帰って行く。
   雄叫びのような泣き声と共に・・・・・・
『ありがとうございました』の声に深々と頭を下げた警察官の肩も震えている。
 切ない声が安置所にこだました。    
             ・・・・・・朴沢先生からのメールより
  雪まじりの外の寒気よりも冷たく重い冷気に押しつぶされそうになる。
東北大歯学部(小児歯科)、土門先生率いる山形県歯科医師会の開業医の先生方(車で片道3時間以上かけて)がボランティアとして参加してた。
地元(石巻)歯科医師会は 被災の状況から機能出来ない状況らしい。連絡つかないとのこと。要請どころか連絡も全くない状況とのこと。
ご家族は無事であったが診療室は流されたという三宅先生、鈴木先生 お二人と出会う。
被災から1週間も立っていない時に、ご自身も被災者である先生方がボランテアとして、いらしている、帰れば家族も自宅も安全で物資も豊富な自分が、今、しなければならないことを改めて肝に銘じる。
震災は 午後3時頃だったので 子供達は学校にいて お父さんが仕事 お母さんはお買い物、おじいちゃん、おばあちゃんが自宅でお孫さんと一緒、幼稚園の帰宅という時間帯だった。家族みんなが離ればなれになってしまったのだろう。石巻では学校は高台にあったので、学齢期の子は助かったのかもしれない、安置されている方の多くは年配の方、ちっちゃな子、、、、、。避難する時に、寒かろうとおばあちゃんがたくさん重ね着をさせて、長靴の下には靴下も何枚もはいて。あまりに突然の大水にきっと、すぐに気を失ってしまったのだろう、ほとんど水ものんでいない、ただ、眠っているような白い小さなお顔。我々歯科医は、身元不明のご遺体の確認。次々と運ばれてくる小さなご遺体に、ほうざわ先生が、突然涙で手が停まってしまう。こんな小さな子、おかあさんがなんですぐ探しにこないんだ、、、声をかけることもできない。自分も涙が止まらない。ほうざわ先生も本当はわかっていらっしゃるから。この子を探しにきたくても、お母さんも、おばあちゃんも、、決して来ることはできない。
指先どころか手の感覚がもう寒さでなくなっている。仙台でもこんなに寒い3月は珍しいとのこと、、眠るようなご遺体を、このまま守ろうと仙台の冬が戻ってきたのかも知れない。
午後5時、全員で合掌して終了。

  三宅先生ご自宅直下の地域は、地震 津波の直後 街が火の海になり二日間焼き尽くされた地域 荒廃した町並み、、、いいえ、瓦礫の山、焦げたにおいの空気。昨日からやっと自衛隊が入り道を造ったという状態。更なる先の 牡鹿半島は未だ自衛隊が入ることが出来ない状況全く手つかずの状況と、、、、、、、、、、、

  関東のみなさまからの物資を避難所に届ける。
被災者の方々は、私たちの次元どころではなく情報が全く入っていない。何処で何があって、どうなっているかも、、、原発など気にしてる間もない。そんな事より家族、知り合いの安否が、、、 寒さ 明日の食事が、、、
点滴、紙製品、毛布、、車から降ろしていると転がり出てくるように看護婦さんたちが走ってきて、何度も何度もお礼を言って下さる。当たり前にあるものが行き渡らない、交通、通信の断絶で、我々が当たり前にできること、しなければならないことができない、お礼など、言って頂けるようなことは何もしていない、できていない、自分の無力さと無念さ。

  3月21日、帰路につく。
テレビで何度も放映された名取川に行く。
震災前の風景を知らない私には、この風景が名取川。故郷を再建してゆくここに住む方々に、これから自分にできることは何だろう、し続けていかなければならないことは何だろう。
5年後、10年後、また必ずここに立とう、と、安岡さんと約束をして東北道に向かった。